
お題 : 薩摩地鶏について
2011/04/24
薩摩地鶏(さつまじどり)とは、九州南部で定着した大型の地鶏のこと。
1943年8月に天然記念物指定を受けた薩摩鶏をなんらかの鶏と掛け合わせる事により 在来種の血液割合が50%以上のものを
薩摩地鶏と呼ぶことができます。比内鶏と名古屋コーチンと並ぶ日本三大地鶏の一つ。鹿児島県では現在 鹿児島県畜産試験場が
12年の年月をかけ作出した 薩摩鶏(♂)×ロードアイランドレット(♀)の「さつま地鶏」を10件に満たない農家で飼育、
銘柄確立に努めています。父方である薩摩鶏の気性が荒く、育てるのが大変難しいが、その肉の甘み、弾力、色合いなどは
格別のものがあり「地鶏・銘柄鶏コンテストⅡ」では最優秀賞を、宮崎のみやざき地頭鶏、青森シャモロック、秋田の比内地鶏を
おさえ獲得しました。
お題 : 鹿児島県について
2011/04/24
薩摩地鶏の産地である鹿児島県は、九州南部に位置する日本の都道府県。九州島の南側には離島が点在します。
九州島の部分は県本土と表現され、薩摩半島と大隅半島2つの半島を有しています。県庁所在地は鹿児島市。
「鹿児島」は鹿児島神宮(霧島市隼人町)に由来します。「鹿児島」の語源は、天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)が海神宮に行く際に
乗った舟が鹿児山で作られたという説や、「神籠もる島」という説、「カゴ」は崖という意味で、四方が崖に囲まれている桜島は
「カゴ島」と謂われ、鹿児島は桜島の古い名であるという説、など諸説あるようです。
現在鹿児島市と鹿児島神宮は離れているが、鹿児島郡設置当初は天降川までが鹿児島郡内であった。
世界遺産の屋久島や、種子島宇宙センター、霧島山などがあり、自然・文化・観光・産業などの面において、豊富な資源を有しています。
主に本土と呼ばれる九州島の部分と離島と呼ばれる薩南諸島にわかれています。本土は、霧島山を除けば大部分はシラス台地の地質
からなっていて、水はけがよく非常に脆いとされています。また、低地や平野が極端に少ないために、県内のほとんどの市町は
周囲が山に囲まれています。島数は605個あり、薩南諸島は種子島、屋久島を含む大隅諸島、トカラ列島、奄美群島からなります。
最北端は獅子島、最南端は与論島で、また有人島最大は奄美大島、有人島最小は新島です。
活火山桜島などの火山もあり、温泉の数も多くあります。南北の距離が600kmに及ぶことから伊佐市などの積雪地域もあれば、
奄美群島のような亜熱帯地域も存在します。日本国内における気候区分では大隈地方は太平洋側気候九州型、
薩摩地方・種子島屋久島地方は同気候南海型、奄美地方は南日本気候に属します。夏から秋にかけては台風の影響を受けます。
特に奄美群島・トカラ列島・大隅諸島には多くの台風が接近していて、日本有数の台風銀座と言っても過言ではありません。
お題 : 鹿児島県の歴史
2011/04/24
今から約24,000年前、姶良カルデラが大爆発を起こしました。この時噴出した火山灰は、遠く北海道まで達しています。
南九州では入戸火砕流などによりシラス台地ができあがりました。種子島にある立切遺跡31,000年前の火山灰層から磨石・敲石、礫群、
焼け土、土坑などが確認されました。これらは後期旧石器人のキャンプ場と考えられています。古代にはヤマト王権から異民族視された
隼人の住地でありました。隼人の古墳は地下式板石積石室墓を特徴とします。日向国から分離して702年に薩摩国、多禰国、
713年に大隅国が成立し、他国からの植民も始まりましたが、その後も隼人の反乱は絶えませんでした。鎌倉時代の1185年島津荘下司職に
補任された島津忠久を祖とする島津氏が薩摩国・大隅国・日向国守護を独占するようになり、戦国期には戦国大名化しました。
また、島津氏が守護を務めた南九州の薩摩・大隅・日向のことを「三州」と称し、島津氏が戦国大名化した戦国期には
「三州の太守」と称される事になります。ただし、後述のように島津氏が県本土全域を支配するのは安土桃山時代に入ってからのことであり、
三州に至っては1577年以降の10年程度に限られます。中世には坊津、内之浦などが貿易港として中国、朝鮮、東南アジア地域との
交易を盛んに行いましたが、肥前などと同様に黒潮の乗って活動する倭寇の根拠地が南西諸島地域にありました。
543年にはポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲伝来します。その6年後、マラッカで出会った薩摩出身の元漁師のアンジロウという
日本人の案内でフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えます。1574年、大隅の肝付氏が島津氏に降伏し、
島津氏が県本土を統一します。1577年には伊東氏を日向から追い出し、島津氏は三州のほぼ全域を統一しました。1587年、島津義久は
ほぼ九州全域を征服しましたが、豊臣秀吉に屈服し、領国は薩摩・大隅・日向に押し込められてしまいました。1609年薩摩藩は琉球出兵を
行って琉球王国を服属させ、中国貿易のダミーとし、奄美群島を領土に組み入れ、当地を使った砂糖業を成功させ、莫大な利益をあげました。
幕末には幕府との姻戚関係となり水戸藩・越前藩などの公武合体派を取り込み雄藩として活躍しました。また、古来よりの島津家と
近衛家との繋がりで朝廷からの信任も厚く、その後の討幕運動では旧幕府軍と対峙して、薩摩藩が官軍の戦闘主力となり、
長州藩や土佐藩などとともに、明治維新を成功させ、多くの維新元勲を輩出しています。
お題 : 種子島について
2011/04/24
種子島は、九州の鹿児島県に属し、大隅諸島を構成する島の1つです。県内有人離島の中で最も東に位置し、人口は奄美大島に次いで
2番目に多く、面積は444.99km2で、奄美大島、屋久島に次いで3番目に大きいようです。マングローブの森が広がっている地域もあるります。
標高は最高点でも282mしかなく、海側から見ると殆ど平らにしか見えません。1936mある隣の屋久島と比べると対照的です。
中心都市は西之表市。年間平均気温19℃・最高気温33℃前後・最低気温1℃前後・年間降水量2000~2500mmで冬季の日照時間は短いようです。
冬の平均気温も12度前後と温暖で、冬型になっても気温が高いので雨となることが多く、雪が降ることは非常に稀である。
夏~秋季にかけては台風の影響をとても受けやすいところです。鹿児島への航路はいわさきグループおよび市丸グループが就航していますが、
2つの企業グループによる競合の結果、利便性の向上や運賃が安くなった反面、過当競争に陥っていると指摘する意見もあるようです。
種子島は古くは多禰島と称した。大宝2年に令制国として隣の屋久島も含めて多禰国が置かれ、島北部に能満郡、南部に熊毛郡が設けられました。
国司も任じられ多禰守として二島を支配しました。多禰国は平安時代前期の天長元年 に廃止され、能満郡は熊毛郡に統合し大隅国に
編入されました。 鎌倉時代には見和氏、肥後氏が支配し、室町時代には種子島氏がこの地を治めました。鉄砲伝来の地で、火縄銃の製作が
始められた場所でもあったため、国産の火縄銃は種子島と呼ばれていました。現在は種子島宇宙センターなど宇宙関連施設が多く建てられ
、日本に於ける宇宙開発の一翼を担っています。また、最近では多くのサーファーが移住し、マリンスポーツ等も盛んに行われている
ようです。戦前より県内外からの移住者が多く、その出身元も多様。島の内陸部にある十六番や二十番という地名は、開拓番号がそのまま
集落名になったものだそうです。