お題 : 名古屋コーチン
2011/04/24
名古屋コーチンは愛知県特産である鶏の品種で、後に「名古屋種」と改名されたが、現在も「名古屋コーチン」のままで流通しています。
名古屋コーチンとは愛知県農業総合試験場で改良された品種で、愛知県畜産総合センター種鶏場から供給された種鶏から生産された
鶏のことです。その飼育は愛知県周辺を中心に日本全国で飼育されるようになっています。卵をよく産み、肉もおいしいことから
「卵肉兼用種」に分類されています。元・尾張藩藩士であった海部壮平・正秀兄弟の手によって、明治初期に、旧・東春日井郡
池林村池之内で、誕生した。中国産の「バフコーチン」という名前の鶏と、元々現在の名古屋市辺りで飼育されていた
地鶏を交配させて作られた品種で、日本家禽協会によって、初の「国産実用鶏」として、1905年に認定されました。
かつては非常に強い就巣性があり、巣篭もりすると採卵効率がかなり低下しましたが、最近は改良が進み就巣性はある程度弱くなりました。
名古屋コーチンは、鶏冠は単冠で成羽は黄褐色で尾が黒く、青鉛色の脚が目立ち眼も青みを帯びています。大型で繁殖鶏は2kg台後半に及び、
丸みのあるどっしりとした体型です。性格が穏やかで飼いやすく、人間によく馴れ、少数飼育では飼い主をよく覚えるようです。
雄鶏は5Kg、雌鳥は4Kgに及ぶことがあり、その重量のため、あまり高く跳ぶことができません。産業鶏にもかかわらず就巣性が残っており、
雌が巣篭もりし雛を孵す事があるそうです。
鶏肉用に飼育される名古屋コーチンは、通常メスで2.2~2.4kg、オスで2.4~2.6kgで出荷となります。名古屋コーチンの肉質は赤みを帯び、
適度に香りの良い脂肪があり、弾力性・充実感があります。名古屋コーチンの卵は、白玉卵や赤玉卵とは違い、
桜色をした卵殻となっています。味は濃厚で卵黄の色は濃く、舌触りは滑らかでこくのある味わいです。
お題 : 愛知県について
2011/04/24
名古屋コーチンの産地である愛知県は、大きく分けて尾張地方、西三河地方、東三河地方の3地域より構成されています。
郡名が県名にされた県の一つで、名古屋県の県庁所在地であった愛知郡に由来しています。『万葉集』の「あゆち」に由来し、
それが律令制下で愛知郡という郡名に採用されたといわれています。なお、県公文書館発行のパンフレット「愛知県誕生のなぞをさぐる」
では、あゆち潟説・あゆちの水説・あゆち村説の三説をあげています。愛知県は太平洋側気候を呈しており、夏は高温多湿で非常に
蒸し暑くなるようです。冬は乾燥した晴天の日が多く、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹き、体感温度が北日本並みに一気に
低下する日もある。北西の季節風の影響があるため強い冬型の気圧配置になると雪雲が、岐阜県の関ヶ原付近から流入し愛知県西部などで
局地的な大雪に見舞われることがあります。
愛知県は、トヨタ自動車を筆頭に自動車関連企業が数多く存在することで有名です。トヨタ自動車の設立は1937年ですが、自動車産業が
本格的に発展したのは高度経済成長期以降のことで、比較的最近になって発達した産業です。自動車産業が発展する前は、
一宮市を中心とした繊維産業や、三菱系の航空機産業等が盛んでした。 また、自動車産業に隠れているものの、がいし生産
世界一の日本ガイシやINAX、日本特殊陶業などをはじめとするセラミックス産業も盛んです。
一方で自然環境にも恵まれており、農林水産業も東三河を中心に盛んです。農産物では、キャベツ・大葉が作付面積・生産量・産出額とも
全国1位であるほか、ふきは生産量・産出額が全国1位、カリフラワーは作付面積・生産量が全国1位、ブロッコリーは生産量が全国1位、
イチジクは生産額が全国1位などとなっています。また花卉の生産も盛んで、きく・ばら・シクラメン・洋らんは作付面積・
生産量・産出額とも全国1位です。そのほか、西尾市は碾茶の産地として知られています。畜産ではウズラの飼養数・産出額が全国1位である。
水産物ではあさり・がざみ(甲殻類)の漁獲量が全国1位であるほか、一色町の養殖うなぎはよく知られています。また弥富市周辺は
金魚の産地として知られています。
お題 : 愛知県の歴史
2011/04/24
愛知県は、令制国では尾張国と三河国に当たります。愛知県は、支配者氏族と関係している地域です。源頼朝が生まれた地域との説もあり、
室町幕府を開いた足利氏は西三河地方に細川氏・一色氏・吉良氏・今川氏など一族が多かったようです。戦国時代には、織田信長、
豊臣秀吉、徳川家康など多くの武将を輩出し中央政局に大きな影響を及ぼしました。江戸大名はこの三人の配下から出た者が多く、
徳川一族や譜代大名などの三河出身者のほか、前田家、浅野家、池田家、山内家、蜂須賀家などの尾張出身者が各地で大藩を幕末まで
支配しました。さながら江戸時代に華咲いた日本的建築や日本的文化は愛知出身者による貢献とも言えます。大名家だけでなく家臣団や
一部庶民も封地へ移り住んでおり、たとえば江戸の誕生と形成に与えた三河の影響はしばしば指摘されるところです。
江戸時代以降、尾張は徳川御三家のひとつ尾張徳川家の領域となり、三河は譜代大名・旗本領・寺社領・天領と分割支配されました。
明治以降、三河国内の旗本・寺社・幕府領を総括する三河裁判所が設置され、のち三河県とされ、さらに伊那県に編入され、
伊那県足助庁が所轄しました。その後、廃藩置県に伴い、三河に10県、尾張に2県が設置され、三河10県および伊那県足助庁および
尾張国知多郡を統合して、額田県を設置。犬山県を名古屋県が併合して設置された名古屋県は改称して愛知県になりました。
そして、明治5年11月27日額田県を愛知県に編入して、ほぼ現在の県域が確定します。名古屋県令であった井関盛艮が権令となった。
県の下には大区小区制により、15大区15小区がおかれ、翌年3月には、第一大区は区長1人、権区長2人、小区に戸長1人、副戸長2人、
各町に副戸長2人ずつを置くことになりました。これらは藩の統治とは違う中央集権国家の末端統治機構でありました。
明治4年11月の県治条例で、県令は管内の立法・行政・司法を専決する権限が与えられ、「天皇の牧民官」と称されました。
尾張国とは
尾張国は7世紀後半以前は木簡などから、「尾治国」と表記していました。また、先代旧事本紀の天孫本紀の尾張氏の系譜にも「尾治」と
あります。国名については、「開墾した土地」という意味の「大治」「小治」が転じたという説や大和国の豪族尾張氏が移住したことに
因むという説など複数あり、その由来は現在もはっきりしていないそうです。鎌倉時代は、弥富市や津島市は、尾張国と見なされておらず、
あま市甚目寺辺りから尾張国であったようです。室町時代以降では北隣の美濃国とは木曽川を国境としていました。木曽川は、豊臣政権時代の
天正14年に氾濫してほぼ現在と同じ流路を流れるようになりました。「天正の大洪水」によって葉栗郡と中島郡が新しい木曽川によって
分断され、新流路西岸は美濃国に編入されました。そのため、愛知県側と岐阜県側に同じ地名が今もいくつか残っています。
三河国とは
三河国は645年の大化の改新後に穂国造と参河国造の支配領域を合わせて成立したと考えられています。参河国が確実に存在したのは
律令制の成立以後です。また7世紀後半に石神遺跡から、三川国穂評と記載された木簡が出土することから、穂国造を否定する説もある
ようです。穂国造の本拠は宝飯郡ですが、確定できる主要な古代遺跡がないため中心地は不明とされています。
西三河に該当する三河国造の本拠は、二子古墳のある鹿乗川流域遺跡群と推定されています。石神遺跡から出土した木簡に、桜井君、
長浴部直と記載された地方国主を想定するものがあるそうです。地方の行政区画である郡は、豪族の支配領域が踏襲されて碧海、賀茂、
額田、幡豆、宝飫、八名、渥美の七群でしたが、後に設楽郡が宝飫郡から分立して八郡となったそうです。
西三河とは
西三河は、愛知県の中部を指し、令制国の三河国の西半分で、矢作川流域の碧海郡、幡豆郡、額田郡、加茂郡から成る地方です。
西三河地方に対して、愛知県西部は尾張地方、愛知県東部は東三河地方と呼ばれます。本宮山から三ヶ根山に至る丘陵を東三河との境と
します。矢作川水系・境川水系流域の西三河平野と、山間部の奥三河西部に分けられます。
東三河とは
東三河は豊川流域に位置し、浜名湖・遠州灘・三河湾・美濃三河高原・新野峠・弓張山地に周囲を挟まれた地域です。
本宮山から三ヶ根山に至る丘陵を西三河との境としています。大化の改新以前には、穂国造の支配領域であったともいわれています。
現在は愛知県に属していますが、伝統的に美濃国や伊勢国、近畿地方と近い関係にあった尾張地方との歴史的連関は浅いようです。
むしろ遠州灘に面する位置や、戦国時代には有力大名である今川義元や武田信玄の領土に入った歴史などから、遠江国や信濃国南部との
繋がりが深く、中でも遠江地方との繋がりが深いようです。