お題 : 阿波尾鶏

2011/04/24

阿波尾鶏は、徳島県で飼育されている鶏の品種で、出荷数・シェアともに日本三大地鶏(名古屋コーチン、比内地鶏、薩摩地鶏)を抑えて トップを誇っています。阿波尾鶏は、徳島県立農林水産総合技術支援センター畜産研究所が開発した肉用鶏で、10年かけて軍鶏の雄と 他の優良肉鶏を合わせて改良し作られました。徳島で有名な阿波踊りから因んでこの名がつけられました。阿波畜産3ブランドのひとつで、 他に阿波牛・阿波ポークがあります。

阿波牛

阿波牛は、徳島県で生産される黒毛和種の和牛のうち、一定の基準を満たした場合に呼称が許される牛肉です。 現在の徳島県の領域にあたる令制国「阿波国」から名付けられたそうです。

阿波牛

阿波牛は、徳島県で生産される黒毛和種の和牛のうち、一定の基準を満たした場合に呼称が許される牛肉です。 現在の徳島県の領域にあたる令制国「阿波国」から名付けられたそうです。 1962年に小松島市農業協同組合からの出品牛が東京食肉市場での枝肉共励会で高い評価を受け、1973年には東京食肉株式会社と 全国肉用牛協会主催による全国肉用牛共進会で小松島市農協の出品牛が名誉賞に選ばれました。1989年度の東京食肉市場での 全国肉用牛共励会において、阿波牛が最優秀賞を獲得し、それ以降は東京食肉市場での名声が高いようです。

阿波ポーク

阿波ポークは、徳島県が独自に開発した系統造成豚「アワヨーク」に、高能力なランドレース種とデュロック種の系統造成豚を 三元雑種豚を肥育養豚として阿波ポーク飼育マニュアルのもと、協議会の指定を受けた県内の農家により飼育・生産されています。

お題 : 徳島県について

2011/04/24

阿波尾鶏の産地である徳島県は、徳島県は四国の東部に位置します。 県北部は粟が多く収穫された事から「粟国」、県南部は「長国」したが、後に統合し、令制国では阿波国と呼ばれていました。 那賀川や吉野川、四国山地、紀伊水道をはじめとする自然が多く残っており、鳴門の渦潮や祖谷渓、大歩危・小歩危、阿波踊りなどの 観光資源を有しています。農作物と養鶏が盛んです。県北部の徳島平野を除いては全体的に山地の多い地形で、特に徳島平野以南に 峙える四国山地は、西日本でも有数の険しい山岳地帯となっています。この山々は昔から現在に至るまで徳島県内の物流や交流の 大きな障害となって来ました。ですがその一方で、山間部からは吉野川、勝浦川、那賀川など、水量の豊富な河川が多数流れ出しており、 豊かな水資源をもたらしてくれています。河川が少なく水不足に陥りやすい隣の香川県とは対照的ですが、逆に治水に長年悩まされて いるようです。また那賀川下流域ではほぼ毎夏、工業用水などの渇水が深刻化しています。徳島県の気候は、一般的にどの地域も温暖で、 夏季と秋季は多雨となり冬季の降水量や降雪量は少ないようです。徳島平野以北は瀬戸内海式気候、四国山地以南は太平洋側気候に 属しています。

徳島県には8市8郡15町1村があります。地域は北部と南部、または北東部と北西部と南部に分かれます。愛媛県における東予・中予・南予、 香川県における東讃・中讃・西讃のような地域の呼称は一般的ではなく、北西部を「西部」、北東部を「央部」や「東部」と呼ぶことも多い ようです。人口密集地の北東部のみを指して「北部」と呼ぶことや、名西郡以西を「西部」と呼ぶこともまれにあります。 北部は香川県との繋がりがありますが、県都・徳島市から西へ離れるにつれて徳島県の影響力が弱まり、相対的に香川県の影響力が強まる 傾向にあるようです。 県内地域間の人口移動は、北東部への移動が大半で、北西部や南部への人口移動は少なく、北西部・南部間の移動は 皆無に近い状況だとういうことです。

北東部

県内では京阪神との繋がりが最も深い地域で、近畿圏の一部として扱われる場合もあります。その一方で、四国他県や中国地方との 繋がりは浅く、言葉や方言なども含め、ほぼ完全な近畿志向の地域となっています。政経両面において、近畿の一員として 扱われることも珍しくありません。北東部の気候は徳島平野にあたる地域は典型的な海洋性気候で、年中温暖で放射冷却が起きにくく 氷点下まで下がることは稀です。日照時間が全国でも指折りの多い地域です。徳島市や吉野川市のある吉野川以南の地域は瀬戸内海式気候に 属しますが、梅雨、秋雨、台風やそれに伴う太平洋からの湿った気流の影響を夏から秋に受けやすい為、一般的な瀬戸内海式気候とは やや異なります。鳴門市や阿波市付近の吉野川以北にあたる地域は典型的な瀬戸内海式気候となっており、温暖少雨です。山間部は県南部の 気候に近く朝晩は冷え込み、平野部に比べると降水量も多く、南海型太平洋側気候に属します。

西部

西部は総面積の約33%を占めています。県の北東部とは異なり、昔から香川県・愛媛県や中国地方との交流が盛んです。 瀬戸大橋開通後は、山陽地方の岡山市などへ気軽にアクセス出来るようになっています。 県都から離れた中山間地のため、かつては権力者の力が末端まで及ばず、権力者の支配への抗争が多発していました。 山岳武士が権力者の主導する改宗に反抗したり、6つの山村を中心に百姓一揆が連鎖発生して大きな動きとなったようです。 西部は全域が内陸性の気候で、朝晩は放射冷却が起きやすく日較差も大きいようです。雪も県北東部に比べると降雪・積雪しやすく、 山間部では路面凍結も多いようです。徳島平野にあたる平野部は典型的な瀬戸内海式気候で隣の香川県や愛媛県の気候に近く、 四国山地である山間部では太平洋側気候にあたり、降水量が多く県南部や高知県の気候に近いようです。

南部

南部は県内でもっとも道路整備の遅れている地域で、県外資本は勿論、県内資本のチェーン店ですら阿南市以南の地域には殆ど店を 出店していないのが現状だそうです。このため、経済面・物流面において取り残されつつあり、今後の道路整備に地域発展の強い期待が 寄せられています。南部の気候は、全域が典型的な南海型太平洋側気候であり、沿岸部は年中温暖で日照時間も多い地域であるが、 山がちである為に県北東部に比べて日較差が大きいです。また、四国山地にあたる山間部は台風や梅雨、秋雨の季節には記録的な 降水量になることが多く、24時間降水量の日本記録を保持する地域があることから、日本で最も降水量が多い地域の一つであるようです。

お題 : 徳島の歴史

2011/04/24

約2万年前の遺物と推定できる国府型ナイフ形石器[が、徳島県域でも49遺跡から見つかっています。 戦国時代には、 三好郡を拠点にしていた三好氏が、東四国から山城国までの八国を支配しました。元々、徳島市は名東郡に属する都市だったので、 廃藩置県の第一次府県統合当時の徳島県は、名東県という名称でした。当初の名東県は、現在の徳島県に当たる旧阿波国の外に、 旧淡路国も範囲としていました。しかし、第二次府県統合により、1875年9月5日に旧讃岐国部分が香川県として分立再置県され、 1876年8月21日に淡路国部分が兵庫県に編入され、阿波国部分は高知県に編入されました。この後の1880年3月2日に、旧名東県が高知県から 分離されて、現在の徳島県が発足しました。宮武外骨の説では、徳島藩は当初「曖昧藩」だったので、徳島藩の首府であった徳島市の 所在する名東郡から名前を取って「名東県」となったということになりますが、復活の際になぜ都市名を取った「徳島県」に変更されたのかは 判らないそうです。

阿波国とは

古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国、南の地域は長国と呼ばれていましたが、大化の改新の後に粟国に統一 されました。和銅6年、元明天皇の命により地名を二字で表記するため粟は阿波に変更されたそうです。 中世、鎌倉時代においては鎌倉幕府により佐々木氏、小笠原氏が守護に任ぜられました。室町時代には三管領家の一つである細川氏の 支配するところとなりますが、戦国時代の到来により小笠原氏の庶流である三好氏がこれに代わることになりました。 三好氏は京都にも進出し、一時は中央の政治にも関与、征夷大将軍さえも傀儡とするなど、権勢を誇ることとなります。 その後、織田信長が三好義継を滅ぼすと、三好一族である三好長治が阿波を統治することとなります。しかし、長治は阿波全土の国人や 領民に対して法華宗を強要し、支持を失ってしまいます。これを良い機会と見た土佐国の長宗我部氏の侵攻にあい、1584年、阿波は 長宗我部元親の支配下となります。長宗我部元親は進撃を続け、1585年には讃岐、伊予も手中にし、四国統一を成し遂げます。 その直後に豊臣秀吉が四国攻めを行います。1585年6月、羽柴秀長を総大将とする10万の軍勢が四国へ送られ、そのうち羽柴秀長、 羽柴秀次らの兵は阿波から上陸し、さらに宇喜多秀家は讃岐へ、小早川隆景は伊予へと多方面から四国に攻め込みました。 元親は2万から4万と言われる軍をもって阿波の白地城を本拠地に対抗したが、準備も出来ておらず、また兵力の差も覆せず、 羽柴軍上陸の2ヶ月後には降伏せざるを得ませんでした。元親は土佐一国を安堵されましたが、土佐以外の三カ国は没収されました。 その後、蜂須賀氏の蜂須賀家政が阿波に封ぜられます。蜂須賀氏は、改易されることなく、江戸時代を通じて阿波国徳島藩および富田藩の 藩主として阿波を治めました。明治に至り、1871年廃藩置県が実施されると阿波は名東県となります。名東県は淡路国も範囲としており、 さらに1873年2月には香川県も編入しましたが、第二次府県統合により、1875年9月に旧讃岐国部分が香川県として分立再置県され、 1876年8月に淡路国部分が兵庫県に編入され、阿波国部分は高知県に編入されました。結局1880年3月2日に、旧名東県が高知県から分離されて、 現在の徳島県が発足し、四国の各国は、ほぼ旧国の形のまま、県へと移行しました。