お題 : 当サイトについて
2011/04/24
当サイトは地鶏ファンサイトです。色々な地鶏についてまとめています。
当サイトは個人が運営するサイトです。会社及び関係企業・組織・人とは一切関係ありません。
当ホームページの情報の合法性、正確性、最新性、適切性などその内容については
一切保証しておりませんので、予めご了承のうえ当サイトをご利用ください。(2011/05/19)

2011/04/24
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2011/04/24
日本各地の地鶏は、「東南アジアや中国などの近隣諸国から渡ってきた鶏が、自然交配して形成されていった」と考えられていますが、 比内鶏は縄文時代以前から比内地方に存在した、日本固有の種です。産地の大館市では、比内鶏のイベント「比内とりの市」を、 毎年1月最終土曜・日曜日に、大館市立比内グラウンドで開催しています。神事から展示即売までさまざまなイベントが行われ、 中でも長さ15メートルの鉄の棒に比内地鶏を串刺しにして丸焼きにする千羽焼きは圧巻です。
比内鶏は薩摩地鶏や名古屋コーチンと並んで、日本三大地鶏に数えられます。原種の比内鶏の体の特徴は、首が長く鶏冠は小さい。 野鶏に近く、品種改良もされていない貴重な存在であるため、1942年7月21日には、国の天然記念物に指定されました。 比内鶏は肉質がヤマドリに似て、風味がよいのですが、ほかの鶏と比べると成長が遅いわりに繁殖率が悪く、病気にもかかりやすいことから、 商品として販売するには難しかっそうです。その生産性の低さを解消するために比内地鶏が生まれたました。比内鶏の特長を引き継ぎながら 生産性を向上させるために、秋田県畜産試験場が数百の鶏の中から選び抜いたのが、ロードアイランドレッド種だったそうです。 雄の比内鶏と雌のロードアイランドレッドを掛け合わせた一代限りの雑種、「F1」を品種として固定したのが比内地鶏です。
比内地鶏の肉質は「歯ごたえはあるが加熱しても固くなり過ぎず、肉の味が濃い」、「濃厚な脂の旨み」など、比内鶏の特長を色濃く 受け継いでいます。とくに、同じく秋田県北部が発祥のきりたんぽ鍋との組み合わせは相性がよく、きりたんぽ鍋セットを販売する業者の ほとんどが比内地鶏の肉と比内地鶏のがらスープを同梱しているようです。
◆雄の比内鶏と雌のロード種の交配で作出された一代交雑種
◆28日齢以降で平飼いか放し飼いで飼育
◆28日齢以降で1平方メートル5羽以下で飼育
◆雌はふ化日から150日間以上、雄は100日間以上飼育
2011/04/24
比内鶏の産地秋田県(あきたけん)は、日本の東北地方の県のひとつで、日本海に面しています。 秋田県は同じ日本海側の山形県や新潟県と同様に冬季には対馬暖流の影響もあってか日本海側から湿った冷たい風が吹き、 みぞれや雪を降らせます。一部例外もありますが隣県の山形県と同様に県全域のおよそ90%の地域が特別豪雪地帯に指定されており、 雪が多く降り積もりやすいようです。冬季間の日照時間は全都道府県の中で最も少なくなっています。そのため、朝晩の放射冷却現象が 起こらず、特に日本海側沿岸部などは関東平野内陸部よりも朝の気温が高いことも多いなど緯度の割には温暖であり日格差が非常に 小さいのが特徴です。内陸部の一部はケッペンの気候区分による亜寒帯湿潤気候となるため、寒さは厳しくなります。また、時として 秋田沖付近に発生する極低気圧からもたらされる暴風雪やゲリラ豪雪による悪天候も決して珍しくはありません。 一方、日本海側気候でありながら夏季は高温多湿でどんよりとしており、梅雨明けのないまま秋を迎えることも珍しくないようです。 しかしながら太平洋側から吹く季節風は奥羽山脈の山々に遮られ、時としてフェーン現象が発生することがあり、冷害をもたらすと 言われるやませも遮られ、特に県内陸部中央~県内陸南部では気温が上昇し真夏日や猛暑日に、夜は熱帯夜になる事も決して少なく ありません。
2011/04/24
現在の秋田県は令制国での出羽国と陸奥国の一部からなります。「秋田」の名前の由来は土壌が稲作に向かなかったため付けられた 「悪田」が転じたものだともいわれています。秋田県にも旧石器時代から人が住んでいた証拠としてたくさんの遺跡が発掘されています。 それらの遺跡から人の手によって加工された石器がたくさん出土しています。遺跡としては、1969年から5次にわたって発掘された 大仙市協和町の米ヶ森遺跡がはじめ。この遺跡からは石器・石核・石片などおよそ1000点が出土しているそうです。 今からおよそ1万2000年前になると土器が製作されはじめ、現在の秋田県域にも縄文文化が栄えました。 8世紀の前半に朝廷により日本海沿岸北辺の交易・征服などの拠点として出羽柵が現在の山形県庄内地方に設置されますが、733年12月26日、 出羽柵は秋田村高清水岡へ移設されました。出羽柵は760年頃に秋田城に改称されます。780年には出羽国府が秋田に移されましたが、 エミシ民族の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び移されることになりました。秋田城はこの後朝廷側によって再建され、 北東北日本海側征服の一大拠点となります。878年元慶の乱が起こり、秋田城や民家は焼き払われ、多くの物資や兵を失ってしましました。 新任出羽守の藤原保則を派遣し、保則は反乱の平定に蝦夷をもって当たらせることで成功しました。この後、城の修復や兵力の増強をはかりましたが、939年には再び天慶の乱が発生しました。
北上川中流以北に勢力を広げていた安倍氏は朝廷に対する貢租・徴役を怠り、横暴な態度であるというので朝廷は討伐を行った。 この戦いは新興武士であった源頼義が陸奥守として向けられ、七年以上にわたり繰り広げられました。
武則の孫の代にいたって一族争いが起こり、家衡が出羽の国、沼の柵に立てこもりますが、家衡はここを源義家に攻められ金沢の柵に 移りましたが、遂に敗れてしまいます。これを後三年の役といいます。
奥州藤原氏は初代の清衡から二代基衡、三代秀衡を経て四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀にわたって栄え、東北の天地は完全に 豪族の支配下になりました。隆盛を極めた藤原氏も、鎌倉幕府を創設した源頼朝が平泉の藤原氏にのがれた弟義経を追討することによって 打ちくだかれ、頼朝は1189年、十九万の軍勢を率いて奥州征伐を行いました。藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡を始めましたが、 途中立ち寄った河田氏の元で裏切りに遭い、河田次郎によって討ち取られてしまいます。同年12月に挙兵した大河氏の大河兼任も挙兵 3ヶ月で討ち取られました。数世紀にわたった豪族の天下も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に頼朝の支配下となりました。 その後、日本海北部に勢力を持った安東氏が津軽地方から南下し、戦国時代になると檜山安東氏と湊安東氏の一族抗争があったものの、 安東愛季の時代に最盛期を迎えました。1602年、秋田郡を領有していた秋田実季と入れ替わりで、関ヶ原の戦いで西軍に内通していた 佐竹氏が常陸国から転封されます。初代藩主は佐竹義宣。義宣ははじめ秋田氏の居城であった湊城に本拠を置きましたが、 まもなく神明山に久保田城を築いて居を移し、藩内を治めることとなります。1868年に始まった戊辰戦争で、久保田藩ら出羽諸藩は 奥羽越列藩同盟に加わります。しかし、久保田藩内の勤皇派がクーデターを起こして久保田藩は一転新政府側となったため、 他の奥州諸侯の標的となり、最終的に勝利したものの、久保田藩領の大半は荒廃したと言われています。